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褒めること(その2)。

2013/09/28 14:20
(続きです。)

静岡県知事による、国語Aで全国平均を上回った小学校の校長名公表は、「褒める」目的を達成できているのか。

褒めることによって何の効果も意図していないのならただの自己満足ということになるので、まずはその可能性を除いて考える。褒める効果として、想定できそうなことをざっとあげるとこんなところだろう(前回挙げたものも言い換えてあります)。

(1)今までやってきたことが認められて嬉しい(精神的報酬)

(2)成果を上げれば評価されることがわかり、今後の意欲につながる

(3)褒められなかった者も成果を上げれば評価されることがわかり、今後の意欲につながる

(4)褒められなかった者は何が足りなかったのかを知ることができるので、優先的に改善すべき点が見えやすくなる

(5)褒められなかった者もどうすれば褒められるかがわかるので、今後の目標が設定しやすくなる

まず、褒められた側から検証してみよう。

(1)については精神的な問題なので正確なところはわからないし、個人差も大きいので校長本人への調査無しでの検証は難しい。では、(2)はどうか。「国語Aで全国平均を上回った」という明確な基準が示されているので、「成果」の定義ははっきりしている。

しかし、その定義が評価基準として妥当でなければ意味が無い。

まず、なぜ「国語A」で平均を上回ったら「褒める」のか。一番悪かったのが国語Aなのだから、他はもう少しマシだったはずだ。他のテストで平均を上回っても褒められないのはなぜなのか。また、個別のテストではなく、総合点で上位だった学校は評価されないのか。国語Aは静岡県全体の結果として最下位だったのだから、上位の学校ももっと頑張れば平均は上がったはずだ。国語Aで上位だったら褒められるというのは、今回最下位だったから「国語Aに注目させたい」という意図しか感じられず、「褒める」というのは後付けの言い訳に見える。

また、「全国平均を上回った」という理由だけで「成果」と呼ぶに値するのだろうか。前回の調査で平均を大きく上回っていた学校が成績を落とした結果、なんとか平均より上を確保したという場合も成果なのだろうか。実際にそういう学校があるかどうかは別として、この基準ではそういう学校も含めて「褒める」ことになる。「成績は落ちたけどまだ平均以上だからセーフ」という発想は(生徒にはありがちな発想だが)向上心とは呼べず、今後の意欲につながるとは言いがたい。

褒められなかった側も同様だ。(4)(5)に関しては、点数が足りなかった、得点を伸ばせば良いということは明確にわかる。そして基準が「平均」なのだから大事なのは「上位にいること」であって、上昇率は評価の外にある。

平均を大きく下回っていた学校が、先生方や児童・生徒、地域の努力で大きく成績を上げたものの、元が低いからまだ平均以下という場合も、この基準では評価されない。一方で何も努力していなくて成績が落ちても、平均よりは上だったら評価されるのだから、「よし、もうちょっと頑張って平均を超えよう」という意欲にはつながりにくい。

公立の小中学校は住んでいるところで通う学校が決まるのだから、スタートラインは平等ではない。この状況で「平均より上」という基準を示すことは、本心がどこにあろうとも、現場の先生方の士気を上げるような行為ではありえない。それでも前向きに考えて意欲につなげるのが理想かも知れないが、「それでも」の時点で意欲を増すような「褒め」はできていないことになる。いわゆる「困難校」で苦労している先生方に無用な負担とプレッシャーをかけてでも手に入れるべきメリットが本当にあるのだろうか。

平均よりも上を確保していれば「成果」、そうでなければ「成果」ではないという考え方は、上位層のみをすくい上げようという発想だ。エリートのみを養成しようというのならそういう考え方もありうる。また、得られる物や地位の数が限られている場合には意味がある。入試や就職活動では限られた席を競争で勝ち取らなければならない。席が一つしか無ければ確かに1位以外には価値がない。また、商取引の世界では利益を出せなければ生き残れない。

しかし、少なくとも公立の小中学校はそういう場ではない。テストをやれば(全員満点でも取らない限り)必ず平均を下回る子は出る。勉強が得意な子もいればそうでない子もいる。競争自体は場面によって必要なものだし、向上心は大切だが、上位の子だけを育てるのが教育ではない。学力調査とは無関係な分野で才能を持つ子も当然いるわけで、そういう子の才能を伸ばす(あるいは摘まない)のも教育だ。(もちろん学校は勉強するところなので、学力を伸ばすことを否定する意図はまったくない。)

そこでこんな基準を与えられたら、それこそいわゆる「困難校」で日々様々な問題と闘っている先生方は絶望するしかない。平均に達しない学校は県の足を引っ張る存在だ。一つの学校で考えれば、平均に達しない児童・生徒は全体の足を引っ張る「やっかいもの」だ。平均を大きく下回っている生徒をテストの日に休ませようと画策する教師や、自主的に「迷惑かかるから、オレ休むよ」という児童・生徒が出て来かねない。

知事は「本来の関心は下位の学校の先生方」で、その先生方を支援したいと言う。それなら、こんな形での公表はするべきではない。今回の公表は現場の先生方に無用な不安を与えて足を引っ張る、嫌がらせにしかなっていない。(中には何も感じていない人ややる気が出たという人がいる可能性を否定はしないが、嫌な気持ちになった先生も少なくないと思う。)

結局、「褒める」ことによる効果を意図しての行動とは考えられないというのが結論だ。

単に「下位は止められたから、せめて上位を」と、「公表という実績」を作りたかっただけなのではないか。あるいは危機感を与えて問題に注目を集め、改革の原動力にしようという意図なのかも知れない。しかし、知事が「助けます」と呼びかけている現場の先生方は、そのためにさらに追い詰められてしまったように思う。
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褒めること(その1)。

2013/09/28 11:47
静岡県知事が、「全国学力・学習状況調査」に参加した県の小学校で、国語Aに関して全国平均を上回った学校の校長の氏名を公表した。

知事の声明全文はこちら。公表した理由を知事が述べた部分をそのまま引用する。

校長名を公表するのは、学校教育の責任は現場の先生にあることを明確にするためです。

実施要領では、学校名の公表は禁じられています。校長名と学校名とは同じだという主張があります。それは誤っています。

学校と校長は同じではありません。なぜなら、学校は変わりませんが、校長・教師は異動するからです。よい教師に恵まれれば、その学校の教育水準はあがります。逆も真です。子供の能力を引き出すのは先生方の仕事です。子供の学力は教師の指導力・授業力に大きく依存しています。高校野球でも、よい監督に恵まれたチームは強くなりますが、監督の指導がよくないとチームの実力は伸びません。まして、小学校の子供の学力の伸びは、先生の指導力に大きく依存しています。小学校の校長は、その学校全体の教師の授業力・指導力をあげる責任をもっているので、責任をもっている者の氏名を公表するのです。

このたび、成績が上位の小学校の校長名を公表したのは、校長にもまして、その学校で実際に指導にあたっている多数の現場の先生方を褒めるためです。しかし、それが目的ではありません。


最後の「しかし、それが目的ではありません」のあとは、本当は下位を公表して、その学校・地域を集中的に支援したかったのだという話が続く。結局何のために公表したのかがブレている点はここではおいておくとして、「校長にもまして、その学校で実際に指導にあたっている多数の現場の先生方を褒めるためです。」という目的は、今回の公表で果たせているのだろうか。

「褒める」ことによって期待される効果としては、「成果が認められるという形での精神的な報酬」と、それに伴う「より一層のやり甲斐・意欲の増進」といったところだろう。褒められなかったその他大勢にとっても、「今度は自分も褒められるような成果をあげよう」という目標が得られる。教育的には、次につながってこその「褒める」行為であることが大切だ。

では、そういう良い影響を、今回の「校長の氏名公表」は与えられたのか。(続きます)








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100位。

2013/09/20 15:26
今年の全国学力テストで、静岡県が小学6年生の国語の基礎的な知識をみる「問題A」で全国最下位になった。ニュースによれば、静岡県知事が、

「責任は子どもの能力を引き出す役割を担う先生にあり、先生に責任感を持ってもらう」
「県内で成績が低かった100校の校長の名前を公表する」

と宣言したそうな。現時点では「上位100校の校長を50音順で公表」というところに落ち着きそうだという報道もされている。いずれにしても、この知事は趣旨を大きく取り違えている。

全国でテストをすればどこかの県が必ず最下位になるし、県内上位・下位100位だって同じことだ。国語の「問題A」というのがどんな問題で、その中のどの問題を、どういう間違え方をしているのかの方が重要だ。そこの分析は「先生の責任」と丸投げしつつ、「校長名の公表」だけやって強圧的に物事を解決しようとしている。

「最下位は恥だ」と知事のプライドが傷ついたせいで、怒りを現場にぶつけているように僕には見える。

(続きます)
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書きたいことが先か、道具が先か。

2013/09/18 17:21
某地方学会に出席。懇親会にて、シンポジウムのパネラーで徒然草研究者の某先生が次のようなスピーチをした。

「『ひるめしなう。』なんてtwitterでつぶやくヒトがいますが、twitterって道具ができるまでは、『ひるめしなう。』なんて情報を発信しようなんて欲求は存在しなかったと思うんですよ。つまり、吉田兼好も、何かどうしても言いたいことがあったから、何か主張したいことがあったから『徒然草』を書いたって言うよりも、書ける状況があったから書いてみたっていう方が実際に近かったんじゃ無いかなーなんてことを、『ひるめしなう。』とつぶやきながら思いました」

ブログやtwitterと平安時代や鎌倉時代の「日記文学」や「随筆」とが似ていることは割とよく言われている。けど、これは言われて初めて気がついた。



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同窓。

2013/09/09 17:08
研究会出席のため、日帰りで名古屋へ。

朝寝過ごして新幹線を一本遅らせることになったり、会場の大学の建物が立派だなーと感心したり、10年ぶりに参加した(大きな括りでは同じ専門ですが、細かい研究領域が異なるからです)ため、姿を見せたこと自体に驚かれたり。

大学院時代に一緒に勉強して祖国で大学教員をしている台湾出身の留学生たちが発表者に含まれていたのに加え、恩師のT先生と宴席でご一緒するのも10年ぶりくらいだったので、懇親会は同窓会のような雰囲気になった。10年間のブランク。研究領域も異なる。懇親会ではアウェイな雰囲気になるのも覚悟していたのだけど、思いの外受け入れてもらえた。

同窓生たちの発表は当然それぞれ進展していたのだけど、発表の仕方も初めて聞く人にもわかりやすいように工夫が凝らされていた。懇親会で「こちらがいろいろと工夫しないと学生が授業について来ない」と言っていたので、10年間のキャリアで鍛えられたのだろう。国が違っても、大学の状況はよく似ているらしい。

懐かしさと感心と感謝と楽しさと…。いろいろな感情が湧き上がる一日となった。

僕は基本的に感情や元気が表に出ない(ホントに元気が無い可能性も捨てきれない)タイプではあるが、ちょっと元気がもらえた気がする。
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最近のできごと(順不同)。

2013/09/04 18:26
○娘は生後六ヶ月。

○9月2日に、娘に歯が生えてきたのを確認。

○娘の声がどうもハスキーなのだけど、赤ん坊の声ってそういうものなのだろうか。それとも大声を出し過ぎて枯れてるのだろうか。ちなみに、まだしゃべれません。

○ゼミ生の教採1次試験の合格率が例年になく高いことが判明。他の先生のところもそうらしい。

○佐賀県の教員採用試験では、二次試験に電子黒板を使うらしい(うちのゼミ生に佐賀県を受ける学生はいないので、他の先生に聞いた)。電子黒板で練習できる環境って限られるのに、不公平は生じていないのだろうか。

○締め切りがあいまいな原稿が一つ。まだ締め切りではないことだけは確かなのだけど、思っているより期限が短かったら怖いので、まだ確認していない。

○先日髪を切った(正確には「床屋で切ってもらった」)が、出来映えは微妙。しばらく待って馴染んでくることに期待したい。
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